2017年4月、1人の日本人数学者がTEDに登壇しました。*1
タイトルは「Can a robot pass a university entrance exam?(ロボットは大学入試に合格できるか?)」
AI 搭載のロボットを育て、「ロボットは東大に入れるかプロジェクト」というチャレンジを主導した、新井紀子氏です。そのプロジェクト中、驚愕の事実に直面した同氏は、次のような未来予想図を描きます。
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人間の仕事がAIに代替されていく。その結果、人手不足なのに町には失業者が溢れる。なぜなら、AIにはできないこと、つまり「意味がわかる」ことが人間の強みなのに、肝心なその意味にアクセスできない人が多いからだ。
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新井氏はなぜこのような未来予想図を描いたのでしょうか。
そして、そのような衝撃的な事態を回避するためには、どうしたらいいのでしょうか。
AIは本当に人間の仕事を奪うのか
「近い将来AIが人間の仕事を奪う」
ここ10年ほど、その真偽がさかんに議論され、研究されてきました。*2
その結果、どのようなことがわかったのでしょうか。
衝撃の論文
発端は、2013年にオックスフォード大学の研究者マイケル A. オズボーン氏とカール・ベネディクト・フレイ氏が発表した1編の論文(以下、「フレイ&オズボーン」)。*2
それは、「米国において10〜20年以内に労働人口の47%が機械に代替されるリスクが70%以上」というものでした。
この内容に世界中の研究者が疑問を持ち、次々と研究成果が発表されました。
ちなみに、野村総研は2015年、「フレイ&オズボーン」の研究者との共同研究で、日本では(2015年から)10〜20年後に、労働人口の約49%が機械に代替される可能性があるという推計値を出しています。*3
楽観論と悲観論
国をあげてこの問題に取り組んだのはドイツです。労働社会省の委託を受けたZEW研究所は「フレイ&オズボーン」と同じ前提で再試算しました。その結果、弾き出された推計値は、米国では9%、ドイツでは12%。*2
これほどの差が出たのは、推計方法が違うからです。
「フレイ&オズボーン」では職ごとに機械への代替可能性を考え、ある機械が出現すると、いきなり人間の職が100%機械に代替されるとして試算しました。
一方、ZEW研究所は、1つの仕事は複数のタスクから成り立っているため、新しい機械が出現しても人間の職がすぐに100%その機械に代替されるわけではないと考えました。人間が行うタスクと機械が行うタスクの分化が進み、技術の進歩に伴って機械が担うタスクの比率が高まっていき、最終的に人間が機械に代替されるという見解です。
以上のように、推計方法や前提によって、楽観論と悲観論が混在しているのが現状です。*4
また、主に以下のような理由から、そもそも「世の中に出ている推計値はすべて間違っている」と発表した研究所もあります。*2
- 将来のデジタル・ビジネスモデルが現時点ではほとんど見通せない
- もし技術が完成したとしても、その技術を現実的に実用化できるまでの時間、費用対効果が見合うようになるまでの時間、古い機械設備と入れ替える時間など、不確定要素が多すぎる
ただし、推計値がどうであれ、技術の進歩に対応できない人はいずれ失業する可能性が高いと、同研究所は述べています。
人間にできてAIにできないこと
数学者・新井紀子氏の未来構想は、冒頭でみたとおり、悲観的です。
AIが人間の仕事をすべて奪ってしまうような未来はこないものの、人間の仕事の多くがAIに代替される社会はすぐそこに迫っていると考えているのです。*5
それはなぜでしょうか。
AIの実力
国立情報学研究所は2011年、新井氏の主導で「ロボットは東大に入れるかプロジェクト」を始めました。*5
ただし、真の目的はAI搭載のロボットを東大に合格させることではなく、AIには何ができるようになり、どうしてもできないことは何かを解明することでした。
それがわかれば、AI時代に人間にはどのような能力が必要かが明らかになります。
プロジェクトは順調に進みました。
最後に受験した2016年の模試(旧センター試験一般入試に対応)では、5教科8科目の偏差値が57.1、全国の大学の70%にあたる大学で合格可能性80%との判定でした。
さらに、東大の2次試験を想定した模試では、数学(理系)で偏差値76.2をマークし、数学だけなら東大理III(医学部)も視野に入るレベルでした。
ただ、英語と国語の2科目は偏差値50前後で伸び悩みました。
新井氏は、偏差値65は超えられないと判断し、プロジェクトを打ち切ります。
AIにできないこと
AI時代が来たとき必要なのは、「AIにはできないことができる」能力です。
では、それは何でしょうか。
その1つが「意味を理解すること」です。
2011年、IBMは「ワトソン」という名前のAIを開発しました。ワトソンはアメリカの人気クイズ番組でチャンピオンを2人破り、ニュースになりました。*5
しかし、意味を理解して答えをみつけたわけではなく、統計と確率という方法論を駆使して、それらしい答えを提示したに過ぎません。
IBMのプロジェクトチームが必要なデータをWebから収集し、システムを組み、「最も確からしい答え」を2秒以内に探し出せる計算機(ワトソン)を構築したのです。
そして、ビッグデータとディープラーニングによって、その精度が上がっているというのが事実です。
AIには意味がわからないのです。
意味がわかるのに、意味にアクセスできない
プロジェクトを通じて、新井氏はある根本的な問題に気づきました。多くの大学生は、そもそも問題文が理解できていないのではないかということです。*5
リーディングスキルテスト
そこで、2016年、基礎的読解力を測定するために、国立情報学研究所を中心とした研究チームが独自のリーディングスキルテスト(以下、「RST」)を開発し、全国の中高生を対象に調査を実施しました。*6, *5
このテストの特徴は、社会人にとって必要となる能力を見据え、「事実に関する文書」を初見で読んで正確に理解できる能力を測ることです。そのため、教科書、新聞記事、辞書・事典などから万遍なく出題し、分野の得意・不得意、親密度、既存の知識に依存しない読解力を測ります。*7-1
読解の能力値は、読解ステップに基づき、7つに分類されています。*7-2, *7-1
図1 RSTの能力値7分類
出典:一般社団法人 教育のための科学研究所「設問の特徴と例題」
https://www.s4e.jp/example
例題を見てみましょう。*7-1
図2 「RST」の例題
出典:一般社団法人 教育のための科学研究所「設問の特徴と例題」
https://www.s4e.jp/example
図2のうち、1列目の「係り受け」と「照応」はAIにもできますが、2列目左の「同義文判定」はAIにはまだ難しく、その他はAIには不可能だと新井氏は考えています。*5
つまり、2列目と3列目のパターンを読み解くことが人間の強みなのです。
RST調査の結果
2018年7月末までにこのRSTを受けたのは、約6万5,000人。その結果、中学3年生のうち、同義文判定では43.7%、推論では65.1%、理数系の定義を理解できるかを問う具体例同定問題では、70.7%の生徒が「ほとんどできていない可能性が高い」ことがわかりました。*7-3
また、RSTで測る基礎的な読解の能力値は、高校の偏差値と極めて高い相関があることも明らかになりました。
ただし、進学率100%の高校でも、内容理解を要する読解問題の正答率は50%強程度にすぎません。*5
さらに深刻なのは、読解力を養うための、科学的に検証された有効な方法がまだみつかっていないことです。
社会人の読解力を養うためには
これはもちろん社会人にとっても深刻な問題です。
例えばワクチンの接種に関して厚生労働省から届いた文書を市区町村の職員が誤読してしまい、混乱が生じるといった問題も実際に起きています。*8
新井氏が必要だと解く「汎用的読解力」とは、分野を問わず、また自分にとって親和性があるどうかとは無関係に、与えられた文章を基本的な構造に従って読み解く力のことです。
こうした読解力は若い人ほど低いのではないかという先入観を抱きがちですが、そんなことはありません。
定期的にRSTを実施している企業のデータを分析したところ、読解力の低い世代は会社によって違うことがわかりました。
一般に、採用時に売り手市場だった場合や、企業の採用力が弱かった時期に入社した人ほど読解力が低い傾向があるのです。
中には、若い世代ほど読解力が高い会社もありますが、それは、その会社の最近の採用が成功しているからではないかと新井氏は推測しています。
前述のとおり、読解力を向上させるための処方箋は簡単ではありませんが、最後に新井氏が推奨する方法をご紹介しましょう。
それは、中学生の頃に苦手だった教科の教科書を一字一句、精読することです。
また、中央省庁の文書や納税に関する書類など、読み飛ばすことができないもの、内容を正しく理解できないと自分が損するものなどを丁寧に読むことも有効だと新井氏は言います。
AI時代に欠かせない基礎能力の1つ「汎用的読解力」。その能力値を把握し向上させることは、ビジネスパーソン個人に留まらず、企業にとっても産業界にとっても重要です。
資料一覧
*1
DigitalCast TED日本語(TalksTalks) 新井紀子「ロボットは大学入試に合格できるか? Can a robot pass a university entrance exam?」
https://digitalcast.jp/v/25858/
*2
独立行政法人経済産業研究所(2019)「人工知能(AI)等と「雇用、人材育成、働き方」」
https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/iwamoto-koichi/26.html
*3
野村総合研究所(2015)「日本の労働人口の 49%が人工知能やロボット等で代替可能に ~ 601 種の職業ごとに、コンピューター技術による代替確率を試算 ~」
https://www.nri.com/-/media/Corporate/jp/Files/PDF/news/newsrelease/cc/2015/151202_1.pdf
*4
経済産業省(2016)「第4次産業革命への対応の方向性 領域横断型の検討課題 :人材・教育」p.15
https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/shinsangyo_kozo/pdf/005_04_02.pdf
*5
新井紀子(2018)『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』 東洋経済新聞社 (電子版 wer. 1.0)
p.3, p.18, p.20, pp.80-81, p.46, p.48, pp.184-185, pp.243-244, pp.227-228
<キャプチャ>
https://drive.google.com/drive/u/0/folders/1g-ZN9B77G69ld-v9muVRwQKcMHlMpORT
*6
国立情報学研究所「ニュースリリース 文章を正確に読む力を科学的に測るテストを開発/産学連携で「読解力」向上を目指す研究を加速」(2016年7月26日)
https://www.nii.ac.jp/userimg/press_20160726.pdf
*7-1
一般社団法人 教育のための科学研究所「設問の特徴と例題」
https://www.s4e.jp/example
*7-2
同「読解のプロセス」
https://www.s4e.jp/process
*7-3
同トップページ
https://www.s4e.jp/about-s4e
*8
産業能率大学 総合研究所「【新井紀子氏 特別インタビュー】~AIの進化とともに生きる~いまこそ求められる『正しく読む技術』」(2021/11/12)
https://www.hj.sanno.ac.jp/cp/feature/202111/12-01.html